AbemaTVのおかげでワールドカップを観まくっている今日この頃。
全試合生中継だと、生活がおかしくなっちゃうね。
今まであんまりサッカーについて書いた記憶がないので、今日は俺にとってのサッカーを語ってみようと思う。
出会い
俺が通っていた小学校は、課外活動のような任意参加のサッカーチームがあった。
小学校4年から入部できるけど、なぜか俺は入部を見送った。
小学校5年になってようやく入部。
俺個人は全然うまくなかったし、チームも強くはなかったけど、活動はすごく楽しかった。
しかしすでに気管支喘息の持病があり、特に長距離のランニングなどが辛いことも。
喘息を理由に、たったの1年間で退部。
トヨタカップの思い出
そのサッカーチームに所属していた1983年。
チームメイトがスポーツショップでトヨタカップの小学生の入場券(たしか500円)をたくさんもらってきたので、チームのみんなで観に行くことに。
グレミオ対ハンブルガーSV。
当時の国立競技場の指定席はごく一部(ロイヤルボックスだっけ?)しかなく、ほとんどは自由席。
しっかりと座席を確保するためにみんなで待ち合わせて、始発で千駄ヶ谷へ向かった。
かつてトヨタカップが行われていたのは、12月の上旬。
寒さをこらえつつ、朝8時の開門までひたすら待つ。
開門すると、みんなで好きな席を陣取る。
正午のキックオフまでそこから4時間ほど寒空の下で待たなければいけないが、適当に遊んでいたらあっという間だったなぁ。
で、試合を観る。
サッカー少年たちは世界一流のプレーに度肝を抜かれる。
特にレナトのゴール。
※先日の日本vsドイツ戦の浅野のゴールの角度を観て、このレナトのゴールを思い出した。
…というのが初めて観に行った年のこと。
中学に入っても、トヨタカップの時期になると必ずサッカー部の連中が俺を誘ってくれて、結果的に1987年まで5年も連続して始発で出発する観戦が続くことになる。
1985年のプラティニの幻のゴール→寝そべり抗議や、1987年の寒すぎてサッカーボール破裂事件も生で観戦した。
木村和司
俺は木村和司の大ファンだった。
国立競技場で行われる日本代表の試合だけでなく、日産自動車の試合も頻繁に観に行っていた。
特に日本リーグの試合は小学生だと100円で入れるので、1人で行くこともあったほど。
今思えば、結構なサッカーマニアな少年だったんだなぁ、俺。
1986年にスペシャルライセンスプレイヤーとして登録された。
「国産プロ第1号」。
木村和司とブレーメン帰りの奥寺康彦の2人だけが実質的なプロとして国内でプレーすることになるわけだが、この頃からあまり生観戦しなくなったのかな。
1993年のJリーグ発足。
「ついに日本にもプロサッカーリーグができた」とは思ったものの、木村和司は選手としてはもう晩年の域。
当然マリノスファンとして何戦かは生で観戦した。
木村和司の出場機会の減少とともに、俺の生観戦も減少。
とりあえず今回はこのへんで一旦区切ります。
今後どの程度深掘りしてサッカーの話を書けるかわからないけど、一応シリーズ化できるようにナンバリングしておきます。